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その名を背負え

初出:2007/6/20
競作テーマ「紋章」。

その名を背負え。



昔の話だ、ついさっきまで忘れていた。
それどころか父の声さえも思い出せないのに、不思議と口調だけはちゃんと覚えている。そのとき、どんな表情でそれを言ったのかも。
石造りの部屋は空気を重くする。新緑の季節、まばゆい光の差し込む窓からは、温い風が吹き込んでいた。
カツン。
足音が軽く響く。ざらついた空気を撫ぜる様に、音は何度もこだましていった。
黒い、冷たい箱に手を触れる。滑らかな表面の、吸い付くような質感が酷く切なかった。まだ、この手をつかんで『ここにいたい』と言われている様で。
触れる指先を離せないまま、重苦しい空気を何度も吸う。涙は出なかった。言葉も出なかった。後悔も、懺悔も、切望も、何も。
もう少し居たかっただろうに。思えば思うほど、切ないばかりだ。
顔をうまく思い出せない。声はおろか、好きなものも嫌いなものも覚えていない。昔はどんな人だったろう、それさえもよく分からない。父の存在は、とても朧で、風に吹かれて消えそうなほど淡い。
ああ、けれど、分かる。
その口調だけ、覚えている。


その名を背負え。


一気に早口で言い切った。威厳とも尊厳とも全く縁のない、ただの人間の必死の訴え。
全くらしくない言い草だった。きっと普段はもっとゆったりと厳かに話す人だったのだろう。けれどあの時は、あの時ばかりは焦っていた。まるで明日世界が終わるとでも言うように。
そうか、自らの抱える時限爆弾に気づいたのは、あの時だったのか。
今更ながらにそれを理解した。
名乗れ、と。誇りを持って自身を名乗れと命じたその声が、震えたことを覚えている。
結局最後まで、物事をありのまま告げることのできない人だった。そんな遠まわしで何が伝わるだろうか。急いているのならば余計に、もっとましな言い方があっただろうに、かわいそうな人だ。
かわいそうな。
こんな鈍感な息子を持って、本当に。
ああ、けれど後悔はない。今更、顔も声も思い出せぬ父を慕うなど無茶な話だ。
あ の人は我侭だった、そしてそれが正当な権利だったのだから、息子に嫌われようとそんなことはたいした問題ではなかったはずだ。ただ、自分の築き上げてきた ものを・・・自分亡き後失くすのが嫌だっただけだろうから。今更きれいごとで奉り上げるつもりなどこちらにもさらさらない。自分と父とは険悪だった、それ でいいではないか。
銀に縁取られた家紋に触れる。
その可憐な文様を、誰よりも誇っていた父こそが、それを背負うにふさわしかった。自分はこれを誇れない、故に背負いたくもない・・・正当な主張ではないのか?
いまだ離したくないとまとわりつく黒い箱を、断ち切るように手放した。
さあ、行こう。
父は父の、自分は自分の道を、人生を。
そう言い切れる息子を持って、満足だろう?
否、満足しろ。

「・・・御決断、くださいましたか?」

黒い箱に背を向ければ、戸惑うばかりの家臣たちがいっせいに自分を見る。
遺言がどうとか死に際の言葉がどうとか、そんなくだらない言葉で縛らなければ不安か?
「ああ、決めたぞ」
一人が家紋の刻まれた父の剣を差し出してくる。
見事な銀の鞘に収まった、細身の美しい剣だ。これも父の誇りだった。そう、これだけは父の持っているもので、唯一気に入っている。何しろ品が良い・・・父の趣味とは到底信じられぬほど、精錬で高貴な印象を与えるから。
受け取れば、冷たい銀の鞘に自分の熱が移る。
そうだな、何事も高いところから低いところへ移るものだ。その道理でいうならば、父の我侭が自分の我侭より高いところにあるとは思わない。


笑う。
ざまあみろ。
ついでに安らかに眠れ。


「全部捨てる、好きにしろ」


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