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朝霧と溶解

初出:2010/5/08
テーマ「向こう側と此方側の堺」

この街は変わったね。悲しいよ。零した言葉にはあまり意味がなかった。目の前の男にとっても、その空っぽな響きは空っぽのまま伝わったことだろう。


どこが変わった、何が変わった?悲しむほどに何かが変わったのだとしたら、それに気づけた君が少し羨ましい。


男は、まるで無造作にそう言った。朝霧にまぎれて、踏みしめた青草は露に濡れ、足の裏をむずむずと這っていく。それはいつか太ももを切りつけたときの、不快な血の這う感覚と同じで、居心地の悪さを助長した。


ねえ君、俺は死ぬのも生きるのも、悲しくはない。


そ の男は、三年もの間声を聞くことさえなかったにもかかわらず、最後に会った時から何一つ変わっていないようにするりと心に馴染む。この街に来たのも久しぶ りだが、まだこの男がここにいるとは思わなかった。この男はこの街が好きだが、この街はこの男を好きではない。だから彼はきっと、握りしめていた砂を零す ように、さらりとこの街から落ちていくのだろうと思っていた。
今、こうしてこの大地を踏み、街に存在があると言うことの違和感は、男を見ていれば徐々に薄れる。それほどまでに男は、この街にとっては異質だった。


俺 はこの街が好きだ。同時に、この街を破壊したい衝動がある。俺は君と話したいけれど、同じくらい君の顔なんか二度と見たくもない。今ここに君がいて、三年 ぶりに会ったと君は言うが、俺はそんなに長い間会わなかったという感傷もないし、言われなければきっと君のことは、永遠に忘れ去っていられただろう。


声をかけてきたのはそちらだと言うのに、男の言い分は酷く身勝手に思えた。小さく、息を吐く。朝靄は薄れず、あたりはまだ一面白今まで、そうして男には白がとんでもなく似合わなかった。
いったい、この白とはどういう色だろうと、ぼんやりと考える。男の詭弁に付き合っている暇はないが、その声を聞くことは嫌いではなかった。抑揚のない、ただ言葉を発するためだけに空気中に放り出されるその声は、一切の感情を含まず、それがゆえに音楽のようだった。
つっかえることもなければ、音程を間違えることもない。男はまるで歌うように声を紡ぐ。それは非常に耳に心地の良いもので、言われている言葉の内容を理解しなければ、子守唄のようだと思う。意味を分かってしまえば、それはとんでもなく無意味な戯言なのかもしれないけれど。
そ ういえば昔から、この男には黒の印象がある。それか、血の様な赤がいいだろう。そんなことを考える。すっかり現実逃避を成し遂げた脳は男の紡ぐ言葉の意味 を拾わない。そうして、情報を遮断し、ただ、男を観察するようにじっと見つめてみると、酷く痩せたなあと今更のように思った。
三年前に、あれを御 覧と夕暮れのカラスを指差した手は、あんなふうに骨が浮き出るほど薄かっただろうか。また、君はいずれこの街を出るだろうねと何の感情もなく笑った男の顔 は、こんな風に頬がこけていただろうか。思い出と言うのは流動的なものだから、きっと何かしらのねつ造も含まれるのだろうけれど、少なくとも三年前まで は、つかめば折れそうなこの、病的な細さはなかったはずだ。
病的。そうか、病か。
それを理解すると、なんだか哀れに思った。
もし かして体がうまく動かなくて、砂のようにこぼれ落ちることができなかったのかもしれない。だからここにとどまっているかもしれない。宙ぶらりんに浮いたま ま、街と言う集合体に一つも馴染めず、男は男のままで、異質で強固で、そのままでいるには労力がいるだろうに、それでも毅然とそのままで。
哀れだ。この男は何かに属すると言うことがない。
い つだって明確に一人で、ただ一人きりだ。かわいそうにと思う。のどの奥につんと染みる痛みがある。何の感情も声に乗せず、ただ朽ち果てるように、男は死ぬ のだろう。そうして灰になって空気に分散して、それでようやく街に馴染めるのだ。否、もしかしてそれでも馴染めずに、ただ灰としてまた風に流れるだけかも しれないが。
男のそういう、強固に不器用で、また器用さには欠片も憧れない難儀な性格を、確かに三年前自分は好ましく思っていたのだけれど。今この男には好ましいと思うところはどこもなかった。それでいい、そのまま、朽ちて屍になってもひとりでいればいい。
結局この男には感情論など似合わない。そうして悲しくないとか羨ましいとか言っているくせに、そんな感情を彼は知らないのだ。知らないくせにそういうのだ。


滑稽だね。滑稽な、生き方だ。


言葉が滑り出ると、滑らかだった男の旋律は途切れた。少しもったいなかったなと思う。三年ぶりなのだから、小一時間ほど聞いておけばよかったかもしれない。これから先もう二度と、聞けないものかもしれないし。
薄く笑った俺を見返して、男は小さくもう一度つぶやいた。


俺は死ぬのも生きるのも、悲しくはないよ。


知っている、と返す代わりに、土産だと言って煙草をひとつ手渡す。受け取ったとしても、男は吸わないだろうと思った。けれども一瞬、男の手にあった重みくらいは、もしかしたら覚えているかもしれないとも思った。
明 日この男が枕元に立って、死んでしまったみたいだよ、と困ったふりをして肩をすくめたとしても、多分自分は驚かないだろう。今朝靄と一緒にすうっといなく なって、おやあれは幽霊だったかと思ったところで、それは全く驚くには値しないだろう。男には人間らしいところなど一つもなく、だから、男はこの街に最後 まで好かれない。それだけの話だ。


ああ、でもどうしてだろうなあ。


こぼれ落ちた言葉は相変わらず感情ののらない、平坦なもので。ただものを見るためだけにあるような、無感情な目がこちらに向けられ、男は不思議そうに首をかしげる。


多分俺は、君が死んだら悲しいだろうと思うよ。


まるで他人事のようにそう言って、男は朝靄の白にかき消された。
さて目の前に流れる川を、渡るべきだとは思っているのだが、ああ言われては仕方がない。あの男が悲しいなんて感情を知るのは、もっとずっと後でいいようなそんな気がして、俺はその川に背を向ける。
またこの街を去る。
多分、次に戻るのはずっと先になるだろうと、踏みしめた青草の鋭さに細かい傷を作る足が、告げていた。

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