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回帰回廊

初出:2006/04/16
海への、畏怖と。
浅い海の色は透明に近く、淡い月の光を吸収して淀む。
凪いだ静けさに身をうずめて、このまま消えるにはどうすればいいだろうかと、空を見詰めた。
微かな身動きにすら、ちゃぷりと水音が響いて凍りついたような空気を砕こうとする。まだこのままでいたくて、息すら潜めた。遠浅の水辺に、一人ぽつんと佇んでいる。
何をしているのだろうかと苦く微笑んで、冷え切った足を動かせないまま、肌寒く感じる外気を吸い込む。夜の味がする、と思った。
ゆるゆると髪を掬う風は柔らかく、わた飴のようにふわりとなでていく。もう、体が動かない。このまま風化して消えてしまうのだろうかと、ぼんやり思った。
崩れてしまいたい。甘い夢のように。
石像のように立ち尽くす自分は、他の人が見たら一体何をしていると思うだろうか。ふとそんな疑問が頭を掠めて、だからできるだけ静かに振り返った。
月明かりに照らされた浜辺に、人影はない。
犬や猫さえも、通り過ぎる気配はなかった。
自分も地球の一部でしかないのだと、妙に簡単に理解できたような気がした。きっと崩れたとして、それでもこの世界からは逃げられないのだ。
朽ち果てたとして、世界中に自分が拡散していくだけ。
ゆるゆると。
世界に捕らわれてしまった。
ご う、と不意に風が吹く。押されるように砂浜に向かって二歩、後退した。母なる海と人は言うが、自分はこの巨大な水の砦が怖い。足元から絡めとられて、引き ずり込まれる気がする。海は美しいが、荒々しい。風と同じだ、優しく頬をなでもすれば、凶暴にそこらじゅうをなぎ倒す。ひんやりとした風の中で目を閉じる と、水の中にいるような錯覚を覚えるのは、両者を同じように自分が捕らえているからだろう。
足首から少し高いところで暗い水がちゃぷりと自分を呼んでいる。
おいで、おいでとささやくように。
生命はみな海から生まれたというが、自分のこの魂は決してこの水の帳から生まれたものではなかろう。総であったならこれほど、水を恐れる必要などあるまい。
明るすぎる月はまるで偽者のように水面をなでる。
世界が、呼んでいる。
還れと、叫んでいる。
じりじりと心を絡めて、真綿でくるむように優しく原点へといざなうのだ。
海が好きだなんて、自分はもう二度と言わないだろう。
崩れてしまいたいと願ったのは、この水の鎖から逃れたかったら。崩れてもこの冷たい棺から逃れられぬというのなら、せめて捕まるそのときを遅らせよう。ざぶり、名残惜しげに絡む水を振り切って。


心なら決まっている。
まだ還らない。

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