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必要な3つのこと

初出:2009/7/09
絵を描く男の話。

遠く砂漠の向こう、大きな宿場町に一人の絵描きがいた。



彼は昔から、余り物覚えがよくなく、絵筆を操る方法の他には、ほんの少ししか覚え ることが出来なかった。彼の面倒を見てくれる人の名前と顔を覚えれば、あとはもう何も覚えられない。目の前のものをカンバスに描くことでしか、景色を捉え ておく術も知らなかった。描いたその瞬間には、確かにその景色が目の前にあったと分かるのに、描き終えてしまうと途端に、それが己の夢なのか現実なのかさ えも分からなくなる。男は今目の前にあったものが夢であることを何よりも恐れた。なぜなら世界が存在しなければ、男の存在そのものが意味を失うからだ。
男は狂ったように目に見えるものを描き続けた。
それは男の魂を燃やす美しき炎のような、一瞬に焼け落ちてしまいそうなほどの情熱で。
描いて描いて、作品が世に出るほどに男の名声は高まったが、それが男の耳に入ることはなかった。自分が有名だとか人気があるだとか、そんなことを覚えられる頭ではない。男が覚えていられるのは、自分の世話をしてくれる人の名前と顔、そして絵の描き方の3つだけだった。
けれどもあるとき、男に少女の声がかかる。
「すごく、綺麗ね」
それは男が耳にする、初めての賞賛の声だった。無邪気で純粋なその声を、男は覚えていたいと思った。どうすれば覚えていられるのだろうと思った。
男 は世話をしてくれる人の名前を忘れて、そこにその賞賛の声を置いた。名前を忘れても姿は覚えているので、たいした支障もない。綺麗ね、と囁く少女の声は、 男に描くことへの更なる情熱をくれた。指先に魂が乗り移ったかのようだった。男の名声は更に高まり、男の描く絵は完成度を上げていった。
男はひたすらに描き続けた。クーデターが起こり王が代わり、国の流れが変わっても。食糧難が訪れその日食うものに困ったとしても。嵐が来てたくさんの家屋が潰れても、戦争が起こって男たちが軍隊に取られても。
描くことしか覚えていられない男に徴兵の命令は下らず、男は世間の変動など何も知らぬままにただ描き続けた。
描けば描くほどに、少女の声がこだまする。すごく綺麗ね、そう呟いた純粋で無邪気な透き通る声を。男にとってはそれだけで胸が一杯になる素敵な言葉で、おそらく今まで自分が覚えたもののうちで一番美しいものだった。
やがて国は破れ新しい風が吹く。
少し前までは賑やかな宿場町だった男の故郷も激変の荒波に飲み込まれる。人の流れは緩やかに、敗戦の傷を抱えたまま、町は急速に廃れていった。男の世話をしてくれていた人も戦争に取られて帰らなかった。やがて男はその人の顔を忘れた。
既に荒れ果てたその町で、男の絵を求めてくる美術商も途絶えた。高らかに鳴り響いていた名声も、戦後の混乱期に薄まって消えていった。それでも男は描き続けた、男に出来ることはそれしかなかったのだ。
あるときふと、男は自分の描いた絵を認識した。その、廃墟と寂しげな風景の中にいる、一人の女性に気がついた。
これは誰だろう、と男は疑問に思った。答えを得るため、男はほかの絵にも手を伸ばした。部屋には既に、男が描き溜めた絵がうず高く積みあがっていた。そのどれもに、同じ女性がいる。男は自分に問いかけた。この人は誰だっただろう。
ドアが開く音がした。
小さな足音がこつこつと、古びた床を鳴らす。
お食事ですよ、柔らかい声が響いて男は振り返った。絵の中の女性は、そこに静かに笑っていた。
男はなぜか泣きたくなって、描き終えたばかりの絵を彼女に差し出した。ホカホカと湯気を立てる食事をテーブルにおいて、女性はその絵を受け取る。
『すごく綺麗ね』
女性の唇は、優しくそう囁いた。男はそこで、もう我慢が出来なくなって涙を零した。
この声を覚えていたい、と思った。既に覚えていることに気づいた。この女性を覚えたいと思った。世話をしてくれていた人を忘れたまま空欄になっていた場所が、彼女で埋まった。



ほとんど廃れ果てた砂漠の向こうの小さな町に、一人の絵描きが住んでいる。
男は3つのことしか覚えることが出来ない。
絵の描き方と、大切な人の顔と、大切な言葉だけを抱いて、男は今日も目の前の景色を描き続ける。時折、画商が訪れるだけのその小さな家で、きっと男は一生をかけて描き続けるのだろう。
彼の生きた全ての道をただ、ありのままに。

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