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散華

初出:2006/01/13
「散華」という響きから連想したもの。

叶うなら、とつぶやいた。
叶うはずなどなかったけれど。


緩やかに流れる水は冷たく、氷が張るのも時間の問題ではないかと思うほど鋭く指を刺す。
しゃがみこんだ地面に花はなく、ああそうか今は冬なのかと、それで気づいた。
隣を彼の人に明け渡してすごした日々は、そうすると季節を一回りできなかったのだ。事実ではあるが、それがひどく心を冷やした。
花が似合う人だったから、せめて、好きだった白い花をと思ったのに、これでは無理だ。季節さえも思うまま操れる力があったなら、今どんなに救われるだろう。
青白く物言わぬ月が、無力な自分を笑っている。
生まれてきてこのかた、こんなに明るい夜があっただろうか。
ざああと風が吹いて世界を揺らす。皮肉なことに、今この明るい月夜を、共に歩きたいと願っている。
背中にぬくもりを感じることにすっかり慣れたこの体は、思いがけぬ空白にひどくうつろで。ぽかりと穴が開いたような喪失感を、いたたまれぬほど持て余す。今、ここで振り向いたならそこにいるのではないかと、そんな夢を繰り返し繰り返し抱いた。
思えば、花のようなその人はいつも笑顔で、時に困ったように笑顔で。
ここに、いた。
どれほどの奇跡だったのだろう、それは。いまだ泣くことも出来ないろくでなしには勿体無い人だったと、本当に勿体無い人だったと、心が叫ぶ。

「――」

ささやいたその名は、夢見た砂糖菓子のように溶けて。
きつく唇をかみ締めねば、願いをかなえるという最後の約束さえもためらってしまいそうな自分が、ひどく惨めだ。
ただ。
ただもう少し、隣に。
それは贅沢だったのだろうか。

叶うなら、と最後まで。
叶わないと知っていたのに。

望まれた通りの小船に寝かせて、その柔らかな唇をもう一度指先でなぞった。この唇は最初から最後まで、自分に温かかった。
揺らめく水面は大切なこの人が愛したもの。自分以外の何かにくれてやるなど、本当は腹立たしいけれど、それでも。この冷たい青に、自分も必ず還ろうと誓った。だから一時、ゆりかごに預けるだけだと自分に言い聞かす。
穏やかに閉じられたまぶたに口付けを落とす。
好きです、好きでした、愛していた、大切だった。どれも違うようで言葉に出来ない。最後くらいは気のきいたことを言いたかったのに、気持ちは溢れ過ぎて形にならず、ただ酷く名残惜しい。
意を決して小船を押し出せば、上流から何か白いものが流れ落ちて、船の胴に引っかかった。
逡巡する間もなく、さすような水の中に足を踏み出す。
痛いほどのせせらぎは、けれども何の苦とも感じなかった。今苦しいとおもうことがあるとすれば、それはこの愛しい人を手放さなければならないことだ。
手を伸ばして掬い上げた白いものは、上流で咲いているのだろうか、椿の花。
木々は、愛しいこの人を自分と同じように愛しんでくれているのだと、少し笑った。
かじかんだ指先が赤いので、白が余計に美しく映える。細く柔らかな黒髪に添えたなら、愛しい人が少し笑った気がして、凍ったようだった心がじわりと緩んだ。

わたしが しんだら 

胸がぎゅうと締め付けられた、あの言葉は。

つきのよるに ふねに うかべて

穏やかに、緩やかに紡がれ、ただただ優しかったので。

みずのひつぎに とじこめて ください

いやだ、と。
ずっと永遠にそばにいろと。朽ちても、灰になってもいいから、共にいろと。わがままを叫びたがる心を押さえつけて、頷いた。か細い約束の指は、まだ熱を持って熱いまま。
浅い、たおやかな流れを、寄り添ってゆっくりと下流へ歩く。
冷たい水の棺よりも、冷たいのは自分の心だ。だから、耐えられる。
さぶり、音を立てて飲み込もうとする暗い水面。これは、この愛しい人を、安らかに包んでくれるのだろうか?一抹の不安を抱えながら、このまま抱きしめて連れ去ろうかと迷いながら、それでも、約束を交わした小指の熱がじんじんと訴える。
ゆるり、時が止まればいい。
侵食を始めた水が、容赦なく愛しい人を冷たい帳へと引き込もうとする。思い出までは蝕まれないよう、動かない人形のような手を握り締めた。
忘れないで、繰り返し、祈っている。
暗い青に飲み込まれようとしている優しい体を、今からでも遅くないからさらって逃げろと心が叫ぶ。うろたえながら、心が詰まって、白い手を離したくないと強く思った。
いっそ一緒に、沈んでしまおうか。
本気でそう思ったなら、穏やかな微笑が少し翳った気がして、あわてて手のひらを逃がした。
忘れられてもいい。嫌われてもいい。けれども何よりも温かな、あの微笑だけは翳ってほしくない。
そうまで考えて、ようやくわかった。
自分は、好きだったわけでも、愛していたわけでも、大事だったわけでもなく。
愛しているのだ、と。

「――」

とっさに、震える声で名前を呼ぶのと同時に。
音もなく、最後の指先が水の棺に閉じ込められた。

「ア、」

震える指が、波紋を求めて水面をすべる。
晴れ渡った月の夜に、水の中一人ぼっちで、自分は。
永久の、別れを。
どうして、抱きしめてさらって逃げなかったのだろう。こんな冷たい棺に、一人ぼっちにしてしまった。少し会えなくなればすぐに、寂しいと目が言っていたのを、まだ覚えているのに。
綿帽子のようにふわりと耳に降る、控えめな声がどんな音楽よりも好きで。
時折ためらいがちに触れる、指先のぬくもりが心地よくて。
だから、永遠に自分のものだと。
誰にも渡さないと告げたときの、泣きそうな笑顔ほど、尊いものはなくて。

「――」

もう一度。
月をためらいがちに写す水面に呼びかける。
叶うなら、永遠に。
叶うなら、隣で笑っていてほしい。
叶わないと知りつつも、何度もそう願って、貴女を困らせた。
けれども、本当に、心からそう思っていたのだ。
ずっとずっと、隣にぬくもりがあればいいと。

「――」

零れる、透明のしずく。
ようやく溢れた気持ちのかけら。暗い水面がじわりと滲んで、冷たいその棺に波紋を呼ぶ。
何度も、何度も。


叶うなら、とつぶやいた。
叶うなら、永遠に。
愛させてほしい、と。


涙は悲しい散華だと、つぶやいた貴女の柔らかな声が、ふわり心に浮かんだ。


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