暁を待つ庭/短編保管庫
別ブログにて書き散らした短編まとめ。
激しく気まぐれ更新。
沈黙は壊れなかった
初出:2006/3/05
後から気づくことは、たいてい大切なことだ。
後から気づくことは、たいてい大切なことだ。
人生とは本を読むことのようだなあ
日差しに溶けるように笑った、その笑顔を覚えている。
兄は幼い頃からそんなふうに、流れる河のようにゆったりと物事を捉える人だった。外を駆けずり回って洋服を汚すのが仕事だった僕とはまるで反対に、兄は本を愛し、絵画を愛し、哲学を愛した。
僕 にとって兄は、決して頼れる人物ではなかった。喧嘩したっていじめられたって助けてくれる気性ではないし、宿題が分からなくたってそのまま答えを知らせて くれることもない。いたずらが見つかってしかられる僕をかばってくれることもなかったし、秘密の隠れ家やとっておきの場所も何一つ知らなかった。
僕はそれでも兄が好きだった。
そ れは兄という肩書きが好きだったのかもしれないし、兄の少し人とはズレた考え方が好きだったのかもしれない。あるいは兄のいつでも微笑んでいる穏やかな気性が好ましかったのだろうか、それとも本を愛し絵画を愛し哲学を愛し、純粋にその愛を示すところが美しく思えたのかもしれない。
とにかく毛糸が絡まるような複雑さで、僕は兄を慕った。それがあんまり複雑な感情であったから、周りの人間は僕が兄を嫌っているのだと誤解したことも知っている。とにかく 僕は兄と目を合わせなかった。あの純粋な目で見られるのがとても気恥ずかしかったし、また分不相応に思えた。それに加えてとてもおしゃべりだった僕が、兄の前だととたんに言葉をなくすのを、人々はとても不思議がった。だんまりを決め込む僕を見て、この子は兄を嫌っているのだろうと推測した大人達は多いが、 本当はそうではなく、僕はただ、兄の前でなにを話せばいいのかが全く分からず、真っ白になっていただけのだった。とにかく僕は兄が大好きだったから、下手なことを言って兄に怪訝な顔をさせたくなかったし、大人たちや友達を笑わせる話であっても、兄はきっと意味を理解しないだろうことを、僕は知っていたのだ。
だから、その複雑な好意を両親でさえも誤解していた僕達兄弟の仲は、誰も知らない暗黙の了解で、非常に友好だった。
兄は静寂を好んだし、僕は兄と一緒のときだけは沈黙も悪くないと思ったので、静まった空間はかえって心地よいものだ。兄も僕のことを好きだった証拠に、決して人前で居眠りをしない潔癖症の兄が、僕の前でだけは再三居眠りをしたのだから、これはもう絶対だと思う。けれども僕達は、相手の好意を確かめるような無粋な質問はしなかったし、心のうちでだけ分かっていれば良いことだと思ったから、周囲の誤解もなすがままにまかせていた。
そんな静かな僕達の空間に、言葉が降りたことは数えるほどしかなかった。たいていは僕が、お茶を持ってくる旨を伝えた言葉であったり、兄が移動を知らせる言葉であったけれど、中に数回、本当に会話らしい会話をしたことがある。
今僕がふと思い出したあの言葉も、つまりそういう珍しい会話のものであった。
「人生とは本を読むことのようだなあ」
分厚いロシア文学の全集を、はらはらとめくっていた兄の指が止まり、ため息をつくような穏やかさで、兄はぽつりとそうこぼした。
「本を読むように、ページを積み重ねていくということかい」
珍しく頭が回ったので、僕はその言葉に反応した。すると兄は微笑んで。
「そうだなあ、それはお前の人生だ。僕の人生は、それと逆なんだよ」
丁度、雲に隠れていた太陽が顔を出して、兄の顔をしらけさせるようにまぶしく照らした。穏やかに微笑む兄の目は、真冬に春を待ち望むかのように、祈るように僕を見ていた。
僕の人生と、兄の人生が逆だとは思わない。
けれども逆だと、兄は言った。
思えばあの時きっと、兄は、持ち前の柔らかさでどうにか僕を押し返そうとしていたんだろう。
あまりこちらに来てはいけないよ、と。
まるでカーテンで風を起こそうとするかのような、柔らかな拒絶だったのだろう。
微笑みながら、兄は沈黙を作った。
それが全て。
その痛みだけが、全て。
翌年、苦しんで苦しんでぼろぼろだったはずなのに、それをひとかけらさえも表に出さずに兄は他界した。
おかしなことに、家族中の誰もが、兄の病気に気づかなかった。
あとから考えればそこかしこにほころびがあったはずなのに、兄の演技は計算されて見事にそのほころびを盲点に押しやったのだ。
まさに、完全なる沈黙の勝利。
それでまた一つ、兄を好きになった。
反面。
好きになりすぎて酷く痛くて、涙を流すことさえも出来なかった。
あア、そうかこういうことか。
酷くうつろな心に、その言葉がよみがえったのは、葬儀の終わった夜だった。そのときになるまで何一つ考えられず、またそのときそれを思いついたことが不思議なくらいに、頭は飽和していた。
『人生とは本を読むことのよう』
ページを重ねていくのではなく。
きっと。
兄にとってそれは、分かりきった結末へと、ページをめくっていく作業だったのだろう。
だとしたら、あのときの沈黙は悲劇だ。
きっと、兄は言葉を待っていた。
我慢して我慢して辛くなって、ふと弱音をこぼそうとして、僕に言ったんだ。
だから僕は。
無理してでも頭を働かせて、悟らねばならなかった。
沈黙の痛さの理由を、悟らねばならなかったんだ。
日差しに溶けるように笑った、その笑顔を覚えている。
兄は幼い頃からそんなふうに、流れる河のようにゆったりと物事を捉える人だった。外を駆けずり回って洋服を汚すのが仕事だった僕とはまるで反対に、兄は本を愛し、絵画を愛し、哲学を愛した。
僕 にとって兄は、決して頼れる人物ではなかった。喧嘩したっていじめられたって助けてくれる気性ではないし、宿題が分からなくたってそのまま答えを知らせて くれることもない。いたずらが見つかってしかられる僕をかばってくれることもなかったし、秘密の隠れ家やとっておきの場所も何一つ知らなかった。
僕はそれでも兄が好きだった。
そ れは兄という肩書きが好きだったのかもしれないし、兄の少し人とはズレた考え方が好きだったのかもしれない。あるいは兄のいつでも微笑んでいる穏やかな気性が好ましかったのだろうか、それとも本を愛し絵画を愛し哲学を愛し、純粋にその愛を示すところが美しく思えたのかもしれない。
とにかく毛糸が絡まるような複雑さで、僕は兄を慕った。それがあんまり複雑な感情であったから、周りの人間は僕が兄を嫌っているのだと誤解したことも知っている。とにかく 僕は兄と目を合わせなかった。あの純粋な目で見られるのがとても気恥ずかしかったし、また分不相応に思えた。それに加えてとてもおしゃべりだった僕が、兄の前だととたんに言葉をなくすのを、人々はとても不思議がった。だんまりを決め込む僕を見て、この子は兄を嫌っているのだろうと推測した大人達は多いが、 本当はそうではなく、僕はただ、兄の前でなにを話せばいいのかが全く分からず、真っ白になっていただけのだった。とにかく僕は兄が大好きだったから、下手なことを言って兄に怪訝な顔をさせたくなかったし、大人たちや友達を笑わせる話であっても、兄はきっと意味を理解しないだろうことを、僕は知っていたのだ。
だから、その複雑な好意を両親でさえも誤解していた僕達兄弟の仲は、誰も知らない暗黙の了解で、非常に友好だった。
兄は静寂を好んだし、僕は兄と一緒のときだけは沈黙も悪くないと思ったので、静まった空間はかえって心地よいものだ。兄も僕のことを好きだった証拠に、決して人前で居眠りをしない潔癖症の兄が、僕の前でだけは再三居眠りをしたのだから、これはもう絶対だと思う。けれども僕達は、相手の好意を確かめるような無粋な質問はしなかったし、心のうちでだけ分かっていれば良いことだと思ったから、周囲の誤解もなすがままにまかせていた。
そんな静かな僕達の空間に、言葉が降りたことは数えるほどしかなかった。たいていは僕が、お茶を持ってくる旨を伝えた言葉であったり、兄が移動を知らせる言葉であったけれど、中に数回、本当に会話らしい会話をしたことがある。
今僕がふと思い出したあの言葉も、つまりそういう珍しい会話のものであった。
「人生とは本を読むことのようだなあ」
分厚いロシア文学の全集を、はらはらとめくっていた兄の指が止まり、ため息をつくような穏やかさで、兄はぽつりとそうこぼした。
「本を読むように、ページを積み重ねていくということかい」
珍しく頭が回ったので、僕はその言葉に反応した。すると兄は微笑んで。
「そうだなあ、それはお前の人生だ。僕の人生は、それと逆なんだよ」
丁度、雲に隠れていた太陽が顔を出して、兄の顔をしらけさせるようにまぶしく照らした。穏やかに微笑む兄の目は、真冬に春を待ち望むかのように、祈るように僕を見ていた。
僕の人生と、兄の人生が逆だとは思わない。
けれども逆だと、兄は言った。
思えばあの時きっと、兄は、持ち前の柔らかさでどうにか僕を押し返そうとしていたんだろう。
あまりこちらに来てはいけないよ、と。
まるでカーテンで風を起こそうとするかのような、柔らかな拒絶だったのだろう。
微笑みながら、兄は沈黙を作った。
それが全て。
その痛みだけが、全て。
翌年、苦しんで苦しんでぼろぼろだったはずなのに、それをひとかけらさえも表に出さずに兄は他界した。
おかしなことに、家族中の誰もが、兄の病気に気づかなかった。
あとから考えればそこかしこにほころびがあったはずなのに、兄の演技は計算されて見事にそのほころびを盲点に押しやったのだ。
まさに、完全なる沈黙の勝利。
それでまた一つ、兄を好きになった。
反面。
好きになりすぎて酷く痛くて、涙を流すことさえも出来なかった。
あア、そうかこういうことか。
酷くうつろな心に、その言葉がよみがえったのは、葬儀の終わった夜だった。そのときになるまで何一つ考えられず、またそのときそれを思いついたことが不思議なくらいに、頭は飽和していた。
『人生とは本を読むことのよう』
ページを重ねていくのではなく。
きっと。
兄にとってそれは、分かりきった結末へと、ページをめくっていく作業だったのだろう。
だとしたら、あのときの沈黙は悲劇だ。
きっと、兄は言葉を待っていた。
我慢して我慢して辛くなって、ふと弱音をこぼそうとして、僕に言ったんだ。
だから僕は。
無理してでも頭を働かせて、悟らねばならなかった。
沈黙の痛さの理由を、悟らねばならなかったんだ。
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