暁を待つ庭/短編保管庫
別ブログにて書き散らした短編まとめ。
激しく気まぐれ更新。
鏡の話
初出:2012/11/13
会いたい人に会える鏡にまつわるエトセトラ
私の友人に、小夜子と言う小柄な女の子がいる。
この子の話は時にやけに心に残るものがあるから、私は小夜子と話すことが好きだった。かれこれ10年ほどの付き合いになるのだが、未だにはっとさせられることが多いのだ。
私は今、白紙のノートのページを捲り、ここに彼女の話を書き綴ろうと思う。なぜなら私には、どうしても彼女とは遠からぬ未来に離れ離れにならなくてはならないような、そんな予感がするのである。
忘れないように。
小夜子の話を、書こうと思う。
小夜子は、鏡が好きではないらしい。
どんなに長くても1分とみていられないので、お化粧などするときはなかなか終わらず、待たされる方がイライラした。途中で鏡から目をそらして、心を落ち着かせて改めて鏡を見る、次第に嫌になってよそ見する、の繰り返しなのだそうだ。
一緒に旅行に行った時などかなり待たされたので、私は腹立たしくて、どうして鏡が嫌いなのかと尋ねたことがある。その時小夜子は、「優しい鏡」のを教えてくれた。
それは、小夜子が小学生のころの話だ。
小夜子が通っていた小学校は、近隣の住人が気軽に遊びに来られるような立地で、校庭の周りに散歩道があったり、ベンチを設置して誰でも休めるようにしてあったのだそうだ。
今では不審者の問題などがあってそういうことは難しいが、適度に田舎だったせいもあり、特に問題もなく、子供たちが体育の授業をしているのを、ベンチに座って老夫婦がにこにこ眺めていることなどもあったらしい。そのベンチに、よく座っている女性がいた。
年齢は二十代後半くらいに見えたらしいが、自信はないと小夜子は言っていた。子供たちのとりとめのない話を楽しそうに、にこにこ聞いてくれるので、特に家庭環境がよくない子供に好かれていたと。
彼女は「ベンチのお姉さん」と呼ばれていたので、名前もわからない。少なくとも、小夜子が小学校三年生になるころにはすでに存在していて、小学校五年になる秋までは頻繁に学校に現れていたようだ。
時は心霊ブームまっただ中、コックリさんだとかエンジェル様だとか、怪しげな儀式が子供たちの間で流行っていた時代だ。小夜子が小学校五年生の秋、ベンチのお姉さんは子供たちにせがまれて、お姉さんが子供の頃に流行ったオカルトな儀式を教えたそうだ。本人には、広めるつもりはなかったのだろう。おそらくは「昔はこんなことが流行っていた」という、ただの世間話のつもりだった。
それが、「優しい鏡」という儀式だった。
手鏡を使った方法で、小夜子曰く、「非常に簡単に、誰でも手軽にできる方法だった」らしい。具体的な手順は、絶対に教えてくれなかった。その儀式を行った人間は、何も起こらない人と、何かを起こしてしまう人と、二通りに分かれたという。
「大半は、何も起こらないのよ」
小夜子は言った。それは少し困ったような、言いにくそうな口調だった。
「でも、五十人に一人くらい、視えてしまう人がいるの」
「視えるって、何を?」
「会いたい人。どうしても会いたい人。どんな手段を使っても、もう一度会いたい人よ」
小夜子はそう言って、そっと目を伏せた。
「私にも、視えた」
「え?」
「だから、鏡は怖いの。私は、次にあれが視えたら手を伸ばしてしまうでしょう。そうしたら私は、きっと連れて行かれてしまうから」
小夜子は確かに見たという。
ベンチのお姉さんが自分の手鏡を覗き込んで、それに手を触れるところを。お姉さんは、「何か見えても絶対に手を伸ばさないで、ふれてはだめ」と子供たちには教えていたのに、自分は手を伸ばしてしまったのだ。
それは、秋の寒い日のことだった。お姉さんは鏡にふれた途端にふっと火が消えるように消えてしまい、慌ててベンチに駆けつけた小夜子がいくら探しても見つからなかった。確かに持っていたはずの手鏡さえも存在しなくて、その何もないベンチが怖くて怖くて、小夜子は大泣きしたのだと、いう。
ベンチのお姉さんは、その日から二度とベンチに現れなかった。
なついていた子どもたちは毎日、今日は来るかな、明日は来るかなと指折り数えて待ったけれど、何の音沙汰もない。お姉さんは消えてしまった、などと小夜子が言えるはずもなく、次第に、子どもたちの意識から彼女が消えていったのだ。
「今も、鏡の中にいるのかしらね、あの人」
小さく、小夜子がため息をつく様に呟いたとき、私はようやく思い出した。
小夜子もまた、家庭環境が複雑な子供の一人だったということに。
「……ねえ小夜子。あなたがその儀式を試したのは、お姉さんが消える前?それとも、後?」
「はは、さすが、鋭いなあ」
私は、この小夜子とは長い付き合いだけれど、それでも時々彼女の笑顔の奥に隠された感情が分からない時がある。この時もそうだった。けれどもたぶん、それはわかってはいけない感情だったのだろうなと、今では思う。小夜子の感情は、いつだって、小夜子だけのものなのだから。
小夜子は、いつも通りに穏やかに、笑って答える。
「うん。後だったよ」
たったそれだけの、話。
会いたい人に会える鏡にまつわるエトセトラ
私の友人に、小夜子と言う小柄な女の子がいる。
この子の話は時にやけに心に残るものがあるから、私は小夜子と話すことが好きだった。かれこれ10年ほどの付き合いになるのだが、未だにはっとさせられることが多いのだ。
私は今、白紙のノートのページを捲り、ここに彼女の話を書き綴ろうと思う。なぜなら私には、どうしても彼女とは遠からぬ未来に離れ離れにならなくてはならないような、そんな予感がするのである。
忘れないように。
小夜子の話を、書こうと思う。
小夜子は、鏡が好きではないらしい。
どんなに長くても1分とみていられないので、お化粧などするときはなかなか終わらず、待たされる方がイライラした。途中で鏡から目をそらして、心を落ち着かせて改めて鏡を見る、次第に嫌になってよそ見する、の繰り返しなのだそうだ。
一緒に旅行に行った時などかなり待たされたので、私は腹立たしくて、どうして鏡が嫌いなのかと尋ねたことがある。その時小夜子は、「優しい鏡」のを教えてくれた。
それは、小夜子が小学生のころの話だ。
小夜子が通っていた小学校は、近隣の住人が気軽に遊びに来られるような立地で、校庭の周りに散歩道があったり、ベンチを設置して誰でも休めるようにしてあったのだそうだ。
今では不審者の問題などがあってそういうことは難しいが、適度に田舎だったせいもあり、特に問題もなく、子供たちが体育の授業をしているのを、ベンチに座って老夫婦がにこにこ眺めていることなどもあったらしい。そのベンチに、よく座っている女性がいた。
年齢は二十代後半くらいに見えたらしいが、自信はないと小夜子は言っていた。子供たちのとりとめのない話を楽しそうに、にこにこ聞いてくれるので、特に家庭環境がよくない子供に好かれていたと。
彼女は「ベンチのお姉さん」と呼ばれていたので、名前もわからない。少なくとも、小夜子が小学校三年生になるころにはすでに存在していて、小学校五年になる秋までは頻繁に学校に現れていたようだ。
時は心霊ブームまっただ中、コックリさんだとかエンジェル様だとか、怪しげな儀式が子供たちの間で流行っていた時代だ。小夜子が小学校五年生の秋、ベンチのお姉さんは子供たちにせがまれて、お姉さんが子供の頃に流行ったオカルトな儀式を教えたそうだ。本人には、広めるつもりはなかったのだろう。おそらくは「昔はこんなことが流行っていた」という、ただの世間話のつもりだった。
それが、「優しい鏡」という儀式だった。
手鏡を使った方法で、小夜子曰く、「非常に簡単に、誰でも手軽にできる方法だった」らしい。具体的な手順は、絶対に教えてくれなかった。その儀式を行った人間は、何も起こらない人と、何かを起こしてしまう人と、二通りに分かれたという。
「大半は、何も起こらないのよ」
小夜子は言った。それは少し困ったような、言いにくそうな口調だった。
「でも、五十人に一人くらい、視えてしまう人がいるの」
「視えるって、何を?」
「会いたい人。どうしても会いたい人。どんな手段を使っても、もう一度会いたい人よ」
小夜子はそう言って、そっと目を伏せた。
「私にも、視えた」
「え?」
「だから、鏡は怖いの。私は、次にあれが視えたら手を伸ばしてしまうでしょう。そうしたら私は、きっと連れて行かれてしまうから」
小夜子は確かに見たという。
ベンチのお姉さんが自分の手鏡を覗き込んで、それに手を触れるところを。お姉さんは、「何か見えても絶対に手を伸ばさないで、ふれてはだめ」と子供たちには教えていたのに、自分は手を伸ばしてしまったのだ。
それは、秋の寒い日のことだった。お姉さんは鏡にふれた途端にふっと火が消えるように消えてしまい、慌ててベンチに駆けつけた小夜子がいくら探しても見つからなかった。確かに持っていたはずの手鏡さえも存在しなくて、その何もないベンチが怖くて怖くて、小夜子は大泣きしたのだと、いう。
ベンチのお姉さんは、その日から二度とベンチに現れなかった。
なついていた子どもたちは毎日、今日は来るかな、明日は来るかなと指折り数えて待ったけれど、何の音沙汰もない。お姉さんは消えてしまった、などと小夜子が言えるはずもなく、次第に、子どもたちの意識から彼女が消えていったのだ。
「今も、鏡の中にいるのかしらね、あの人」
小さく、小夜子がため息をつく様に呟いたとき、私はようやく思い出した。
小夜子もまた、家庭環境が複雑な子供の一人だったということに。
「……ねえ小夜子。あなたがその儀式を試したのは、お姉さんが消える前?それとも、後?」
「はは、さすが、鋭いなあ」
私は、この小夜子とは長い付き合いだけれど、それでも時々彼女の笑顔の奥に隠された感情が分からない時がある。この時もそうだった。けれどもたぶん、それはわかってはいけない感情だったのだろうなと、今では思う。小夜子の感情は、いつだって、小夜子だけのものなのだから。
小夜子は、いつも通りに穏やかに、笑って答える。
「うん。後だったよ」
たったそれだけの、話。
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